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その他

プロフィール

はじめまして!ももすけです。

私はスキルも実績もない、ごく普通の会社員です。

そんな私がなぜWEBマーケティングを学ぶことになったのか、自己紹介も含めてお話していきたいと思います。

基本情報

・名前:ももすけ
・生年月日:1996年3月10日(27歳)
・出身:新潟県新潟市
・職業:会社員
・趣味:ダンス・歌・Netflix・YouTube
・好きなアーティスト:優里

幼少期〜中学生時代:大嫌いな習い事と母の死

私は、新潟県で生まれ、人生のほとんどを群馬県で過ごしました。

真面目な父親と、厳しくて優しい母親。そして弟2人。

父は会社員で設計のエンジニア、母は専業主婦でときどきパートをしていました。

家ではうるさいくらい喋るが、外に出ると全然喋らない引っ込み思案な性格でした。

5歳のときにバイオリンの習い事を始めました。

最初はオーケストラ団体に所属し、遊び半分で楽しくやっていました。

ある日、個人レッスンに通うことになります。

全く上達しない私に母が痺れを切らしたのだと思います。

小学2年生頃だったと記憶しています。

毎日、母に怒られながらの練習が始まります。

弓で叩かれて、弓が折れたこともあります。笑

怒られることが嫌でバイオリンが嫌いでした。

いつも辞めたいと思っていました。

そんなに嫌なら辞めてもいいよと何度も言われたのですが、辞めたら見捨てられると思い込み、辞めたいとは言い出せませんでした。

そんな毎日だったため家の居心地は最悪でした。笑

学校も好きというわけではなかったので、当時は逃げ場がなく、家に帰るといつもイライラしていました。

このできごとがあったから忍耐力と根性がついたと思っています。

そして、小学4年生の時、母の病気が発覚します。

ガンでした。

見つかるまでに時間がかかってしまったため病状は進行していました。

母は治療のために入院生活が始まります。

父は茨城に単身赴任中で、毎週土日だけ帰ってくるという生活でした。

そのため、平日はヘルパーさんが食事や洗濯などの家事をしてくれます。

入院初日は寂しくて、夜布団の中で隠れて泣きました。

同じ部屋で寝ていた弟たちも泣いているのがわかりました。

土日には、単身赴任先から帰ってきた父とお見舞いに行くのですが、抗がん剤や放射線治療で弱っていく母を見るのは辛かったです。

そんな生活にもすぐに慣れ、母は4カ月で退院しました。

その4カ月間は小学4年生だった私にとってはものすごく長かったように感じました。

母が元気になり、元の生活が戻ってきたと安心していました。

その矢先に今度は父がガンになりました。

幸いにも早期発見できたため、手術で短期間入院はしましたが再発することなく完治しました。

そして、母の病気が再発します。

治療から2年経った頃でした。末期のステージ4でした。

母は、治療をせずに家で静かに暮らすことを希望しました。

きっと、入院生活が苦しかったのだと思います。

※5年生存率・・・ガンは5年間再発しなければ完治したとみなす。

同時期に母方の祖母が亡くなってしまいます。良くない出来事って重なりますよね。。

再発後、母は元気に生活していました。

家族で旅行にも行きました。あの頃は家族全員での旅行はこれが最後だなんて思ってもみませんでした。

再発直後は元気そうに見えた母でしたが、だんだんと動けなくなっていき、いつもベッドで寝ていました。

そして、モルヒネを使うようになり、中学2年生の夏休みに母は亡くなりました。47歳でした。同時に、5歳から続けていたバイオリンも辞めました。

母は、亡くなる直前「ごめんね。ごめんね。」と何度も言いました。

しかし、反抗期だった私はそっけない態度をとってしまい、とても後悔しました。

そして小学生の頃から考えていた「働けるようになったら親孝行したい」という願いが叶わなかったことを悔みました。

人はいつ死ぬかわからない。父には元気なうちに親孝行する。と決心しました。

決心したものの、反抗期で父との仲は悪かったため、母なしで生きていけるのだろうかと絶望しました。

「人はいつか死を迎える。それがただ早かっただけのこと。」と自分を納得させ、悲しい気持ちは時間が解決してくれました。

父は会社員をしながら私たち3人の子供を育ててくれました。

高校生:突然始まった一人暮らしと人間不信

父とはたくさん喧嘩もしながら、私は無事に高校生になりました。

大学には進学しないつもりで商業高校を選びました。

父は堅実な人だったため、欲しいものがあっても買ってもらえないことに嫌気がさし、「早く働きたい」という思いが強くなっていました。

そして、高校2年生になりクラス替えがありました。

私が通っていた高校は2年生から学科が分かれるため、卒業まで2年間は同じクラス。

2年生の初日、1年生のとき仲良しだった人が同じクラスで安心しました。

しかし、安心はすぐに絶望に変わりました。

その子は、部活で仲良しの友達が同じクラスになったからか、私のことは知らんぷりでした。

仲良しだと思っていたのは私だけだったようです。

他にも、クラスメートの話ですが、昨日まで仲良くしてた人達が急に仲が悪くなる場面を目撃したり、

「女子ってめんどくさ。友達なんて信用できない。」と思ってしまいました。

その出来事から、「高校では友達は作らない。」と決めました。

もちろん、授業中など必要な場面ではクラスメートと会話することはありましたが、特定の一緒にいる人というのは作る気になれませんでした。

そして、同じ時期に父方の母が体調を崩し父は新潟の実家に帰ることを決めました。定年も近かったため父は仕事もやめました。

私は、せっかく高校に合格したことと、あと1年ということもあり高校2年生の1月から一人暮らしをすることになりました。

家族と暮らしていた頃は、うるさく感じ早く一人になりたいと思っていたのですが、実際に一人暮らしを始めると想像以上に大変で、時間に追われる毎日でした。

高校3年生になるとバイトを始め、勉強はほとんどしていませんでした。

それでも、資格取得に力を入れている学校だったため、簿記の成績だけは良かったです。

放課後に補習をしてくださった先生方のおかげで、日商簿記2級を取得することができました。

その頃、趣味であるダンスを始めます。

最初はYouTubeを見て振りを覚えたり、基礎練をしていました。

単発のレッスンに参加するようになります。

できなかったことができるようになる楽しさを覚え、ずっと続けられるように頑張ろうと思いました。

これが後々、仕事を頑張る原動力となります。

新社会人~21歳:好きなことのためには嫌いな仕事でも我慢するしかない

高校卒業後は工場に就職しました。

しかし、入社してみると仕事も難しく、おばちゃんがたくさんいて怖い・・・。

当時は怖くて周りを見ることができませんでした。

そのため、入社後3年間くらいは早く辞めたいと思っていました。

同期3人の中でも出来が悪く、仕事を覚えるのが遅かったです。

特にやりたい仕事というものがなかった私は、普通に生活できて趣味を楽しめるくらいの給料がもらえればどこでもいいと思っていました。

自分が応募できる求人の中で、できるだけ給料が高い会社を選びました。

初めての給料をもらったときは、「本当にこんなにもらえるんだ。」と驚きました。笑

求人票と同じ額が出ただけなのに。

高校生時代に一人暮らしをしていた頃は、親からの家賃と最低限の食費+バイト代で生活していたため、給料が多く感じたのだと思います。

しかし、お金が必要になることも増え、ほとんど貯金ができないまま3年が過ぎてしまいます。

・ずっとコンプレックスだった歯列矯正

・普通自動車免許取得

・脱毛

22歳~23歳:仕事のために生きる毎日

22歳になり、やっと仕事が楽しいと思えるようになりました。

そして、10人程度をまとめるリーダーになりました。

当時の上司が推薦してくれてリーダーになることができました。

至らない点はたくさんあったのですが、全体のバランスを見て複数のことを並行して進めることが得意だったため、それを評価してもらいました。

当時は忙しく、ピーク時は100時間残業も普通だったため、とにかく効率良く進めることが求められました。

残業の上限22時までやっても納期に間に合わなそうな時は朝早く出社し始業時間の8時半前から仕事をしていたこともあります。

ありがたいことに残業代は100%ついていたのですが、朝は私が勝手に出ていただけなので時間外手当はつかないこともありました。

ですが、毎日長時間労働で疲れていたため、手当のことはどうでもよくとにかく早く帰りたい一心でした。

とはいっても、大量の仕事でも納期に間に合わせたいし、残業はできるだけ減らしたいなんて欲張りですね。笑

時間に追われすぎて、今日って何月だっけ?と思ったこともあります。笑

またある時は、今日までの仕事ばかりで絶対終わらないし全然帰れないじゃん。と一人で勝手に焦り、誰にも気づかれないようにこっそり泣きながら仕事をしたこともあります。

そんな状況でしたが、やりがいをすごく感じていました。頑張れている自分が好きだったのだと思います。

そして、自分のことだけで精一杯の毎日だったため、仕事をしながら子供3人育ててくれた父をすごいと思いました。

残業代が多かったため、月に1回は都内に遊びに行っていたような気がします。

土曜日に休日出勤して、夜に電車で都内に向かい、スタジオを深夜パックでレンタルし友達とダンス練習、朝6時頃にまた電車で帰るという日もありました。

ハードでしたが、楽しかったです。

このとき、

どんなに忙しくても時間の確保は難しくはないが、会社員の場合はお金の余裕を作ることのほうが難しいと感じました。

24歳~25歳:コロナ禍の始まりと出会い

しかし、コロナ禍になり都内へも行けなくなってしまいます。

ちょうどその頃、昔習っていたバイオリンをもう一度習ってみようかと考えていたのですが、コロナのこともあり断念します。

代わりに、ずっとやってみたかったボイトレを受けてみたいと考えるようになります。

ボイトレなら家でオンラインでできると思ったからです。

先生はいつもニコニコしていて、元気をもらえる方でした。

レッスンはとても楽しかったのですが、思うように声が出せないことに気づきます。

先生からは、声は気持ちがすごく影響するから何か辛いことがあるんじゃない?と言われます。

その通りでした。

その頃は職場での人間関係に悩んでいました。

あるとき、YouTubeを見ていたら「原因自分論」という考え方を知ります。

すべての原因は自分にあると考え、改善するための考え方です。

他人をコントロールすることはできないので自分を変えるほうが簡単だし早いということですね。

ただ、決して原因が自分にあるから自分が悪いと責めるとか、追い詰めることとは少し違います。

私は、この考え方に出会い人生が変わってきた感覚がありました。

そして出会う人も変わってきた気がします。

今まではいつも人のせいにして自分は悪くないと思うことも多かったです。

でも、問題が起こるときは必ず両方悪いということに気づきました。

もちろん、悪い割合に差があるときもありますが片方だけが悪いくらいでは問題が起こるところまではいかないと感じています。

そして、人のせいにしているのになぜか自分が傷ついていることに気づいてしまったのです。

この考え方をするようになってからは、人とぶつかることが格段に減りました。

同時に、

すべては考え方次第なんだと気づきました。

人生が変わるキッカケになったボイトレは今でも続けていて、私もこんな素敵な大人になりたいと先生に憧れています。

26歳~:副業への挑戦と上司のパワハラ

残業がほぼ0になり、このままではマズいと思い副業を考え始めます。

実際に副業を始めたのは26歳のGWでした。休みで時間ができたため、どの副業をやろうか調べまくりました。

結果、クラウドワークスで動画編集の案件に応募してみることにしました。

趣味のYouTubeで動画編集をしたことがあることと、PCを持っていたためです。

実際に案件を探してみると、単価が高い案件はポートフォリオ必須やPremiere Proが必要でした。

どちらも無かったため、ゆっくり動画しか選択肢がなく、ゆっくり動画の案件にひたすら応募しまくりました。

そして、14件目でようやくお仕事をいただくことができました。

YMMを使ったことはありませんでしたが、詳細なマニュアルがあり、なんとか案件をこなすことができました。

※YMM=ゆっくりムービーメーカー

1回目の納品で良い評価をいただき、継続させていただけることになりました。

しかし、会社員をやりながら希望納期に間に合わせることが難しく、2本納品したところで断念しました。

実績が無いにも関わらずお仕事をいただいたクライアント様にはとても感謝しています。

これが私の初めての副業でした。辞めた後、次は何をしようかとしばらく彷徨うことになります。

そして、ある時組織変更により上司が変わることになります。

新しい上司は、前の上司とは性格も考え方も正反対でした。

それでも最初は問題なく仕事ができていました。

しかし、だんだんと上司の行動に違和感を覚え、関係が悪くなっていきました。

まるで本当かのように嘘を言って私をコントロールしようとしてきたり、お願いした仕事は一切やってくれないのに、私には納期ギリギリの仕事を頼んでくる。

頼まれた仕事は私がやらなかったら他の人が困ってしまうと思ったため、仕方なくやりました。

仕事をするために会社に行ってるはずなのに、本当にくだらないですよね。

その上司の上の人も、平気でこれらのことをやっていて社内の不倫相手のお願いだけはすぐに聞くという人なため、その悪影響を受けて真似をしてる人が多いです。

私はそんな上司と職場が嫌で行きたくなくて、日曜日の朝は毎週泣いていました。

そして、こんなところ辞める!と、転職活動を決意します。

まずは転職エージェントに相談に行きました。しかし、そう上手くはいきません。

相談の結果、将来的に給料アップを狙えるエンジニアに応募することになりました。

エンジニアといっても未経験なのでSESです。そのため入社直後は今より給料が下がることが分かっていました。分かってはいたもの、大好きなダンスができなくなることや、家賃が安い家にしか住めなくなるかもなど、いろいろなことを考え悩みました。

そんなとき父がエンジニアだったことを思い出し、相談してみました。

父にはやめておいたほうがいいと言われました。口癖がやめておけなのでそう言われることは予想がついていたのですが、私はなんでもやってみないと気が済まない性格のため、やってみないとわかんないじゃんと言って喧嘩になりました。

ただ、私も今の生活が崩れることが怖かったため転職は一度考え直すことにしました。

今すぐ辞めることができないとなると、今の上司のまま仕事を続けることは苦しかったため個人的に上の人に相談し、部署内で異動をさせてもらいました。

現在は、過去リーダーに推薦してくれた上司と仕事をさせていただいています。

そして、入社当時一番出来が悪かったことを活かして、難しい作業をわかりやすく教えるということもしています。

出来が悪い人が教えることなんてできるの?と思うかもしれませんが、出来が悪かったからこそできない人の気持ちがわかると思っています。

つまずくところは大体みんな同じだからです。

逆に、簡単にできてしまった人は「どこが」「なぜ」できないのかわからないので自分基準で教えてしまう人が多いと感じています。

話が飛んでしまいましたが、もちろん今の職場を辞めたい気持ちは変わっていません。

そんなとき、YouTubeである女性社長に出会います。

その方は、「夢を持って生きることの素晴らしさ」を発信されていました。

私は動画を毎日見ていました。

職場で嫌なことがあっても、その方の動画を見ると元気がもらえたからです。

そして、そのYouTubeでWEBマーケターをしていたのが今のWEBマーケティングスクールの先生でした。

ダンスの練習のためによく借りていたレンタルスタジオのオーナーさんが、「副業で成功するためにはWEBマーケティングの勉強が必須」と発信されていたため、WEBマーケティングには以前から興味がありました。

精神的に追い詰められ、仕事を辞めたくても会社員の稼ぎしかなく辞めることができなかった経験から、

お金がないと不幸を避けることができない。と再認識しました。

そして、将来、大切な人や自分を守るためにWEBマーケティングを勉強しようと本気で思いました。

最後に

私は、幸せな未来を実現するために目標を設定しました。

1年後に副業で月収30万です。

この目標が実現可能なのか?

・高卒だから収入が少ないと諦めている。

・転職したくてもスキルが無いためできない。

・職場に行くことが辛いが、他に収入が無く辞めることができない。

これらは全て私の悩みです。

そして、

・会社だけに依存せずに生きていけるようになりたい。

・場所を選ばずに働けるスキルを身に着けたい。

・将来のお金に対する不安をなくしたい。

これらを実現するための道のりを発信していきます。

私と同じような悩みがある方にとって、少しでも助けになっていたら嬉しいです。